十勝の命、そのままに。

北海道の大地で育まれたエゾ鹿100%。 自然の恵みを、愛犬の健やかな日々へ。

模様で装飾されたシカが、草原と山々を背景に立っている線画イラスト

cycle of life

十勝ぼっこの「鹿肉ジャーキー」は、
北海道・十勝の大地で育った野生のエゾ鹿を原料としています。

野山を自由に駆け、大地の恵みを食べて育ったその命は、まさに自然そのものの恵み。

その肉には、肥満やアレルギー、生活習慣の乱れなど、
現代の犬たちが抱える悩みにそっと寄り添い、
愛犬の健やかな体と心を支えてくれる――静かな力があります。

人の恵みであり、
神からの〜でもあった「鹿」という存在。

古来より、日本人やアイヌの人々にとって鹿は、貴重なタンパク源であり、
衣食住を支えるかけがえのない存在でした。

日本書紀には神の使いとして登場し、アイヌ神話ではカムイ(神)そのものとして、
森から人へと“恵み”を授ける存在と語られます。

その命をいただくということは、自然と共に生きる誓いのようなもの。

鹿の肉には、太古から続く「祈り」と「共生」の記憶が宿っているのです。

 森の神の地上の姿としての「鹿」という存在

森の神が「人間たちが飢えている」と察すると、鹿の姿をした神を地上に遣わし、
「自らを差し出す」ことで、人々に命をつなぐ機会を与える

神謡に登場する鹿は、決して無抵抗に狩られる存在ではなく、
カムイの意思により「使命を持ってこの世に降りた存在」として描かれています。

仕留められた鹿の魂は再び神の国へと帰り、次なる命として転生すると信じられており、
アイヌの人々は“霊送り(イオマンテ)”という儀礼で、
その魂を丁重に見送ってきました。

また鹿は、再生と循環の象徴としても大切にされてきました。

鹿は四季の中で角を生やし、落とし、
また伸ばすという神秘的な生命サイクルを繰り返します。

この姿は、人と自然が共に生きるという「理(ことわり)」を示す存在として、
日本人やアイヌの心の中に深く根づいてきたのです。

日本神話では神の使いとして、
アイヌの文化では神の恵みを届ける存在として崇められてきた鹿。

その角や骨は、神との対話のための「道具」とされ、
さまざまな儀式の中で神聖に扱われてきました。

鹿の命を頂くということ。
太古から続く命のリレー

現代を生きる私たちにとって、鹿はもはや身近な食料源ではありません。

しかし、その自然から離れてしまった人間の傲慢さこそが、
さまざまな“ゆがみ”を生んでいます。

山あいの村々では、エゾ鹿による農作物の被害や森林破壊が深刻化しており、
その影響は一説によると数十億円規模にものぼるとも言われています。

こうした“自然動物との関係性”に向き合い、調和を保つことは、本来人間の役割でした。

ただ、現代の私たちは“自然の循環”の外に立ち、
暮らしを自然から切り離してしまったことで、
バランスの崩れた歪みが各地に現れはじめています。

その結果、かつて豊かだった北海道の山や森が、静かに、
しかし確実に荒廃の道を歩みつつあるのです。

そうした断絶を、もう一度「つなぎなおす」ために十勝ぼっこでは、
十勝のハンターたちとの信頼関係のもと、
自然の中で生き抜いたエゾ鹿を、大切にいただいています。

一見すれば「残酷」に映るかもしれない鹿を狩猟するという、人間としての営み。

けれどもそれは、かつて当たり前にあった“命のめぐり”のひとつ。
人が自然の一部だった頃の、ごく自然な在り方なのです。

自然に生かされる鹿も、人も、犬も、すべての存在が、
イオル(アイヌ語で自然の領域を指す言葉)の調和の中で共に在れるように。

今日もまた、ひとつの命が、次の命へと受け継がれていく。

十勝ぼっこは、鹿という命を感謝しながら、太古から続く“命のリレー”の中で、
鹿と人と犬をつなぐ存在でありたいと願っています。